東京レトロポリタンク

BL小説家(志望)の男の興味の矛先。

月曜日でも友達でももうない/『月曜日の友達』感想文

わたしは漫画の読みかたが判らない。目に入ってくる情報を、どう取捨選択して理解していけばいいのかが判らないのだ。

 


 


阿部共実『月曜日の友達』を読んだ。Twitterに流れてきたリンク、サムネイルを見たときには、ごく乏しい漫画知識に基づく想像力を働かせ、この黒目がちな女子高生が主人公のシュールなギャグ漫画だろうかとリンクを踏んだ。読み始めてすぐに、あ、これはそういうもんじゃない、と気が付いたし、阿部共実のどこか冷淡な印象の絵は、前髪が眉の上でぴっちり揃った女の子であったり、家のカーテンをひっぺがしてそのまま巻いたみたいなストールを垂らした男の子みたいな、厄介な精神性、こだわりを感じさせた。

仮にそう思ったタイミングですぐにブラウザを閉じていたなら、わたしは息苦しい胸が苦しい感覚に長く苛まれることにはならなかった。

あれから一週間以上、『月曜日の友達』に縛られている。水谷が、月野が、胃に肺に深く爪を立てた。彼らの表情がまぶたの裏に白い粒となり浮かび、眩くてかなわない。耳の奥ではamazarashiが同作に寄せて書いた「月曜日」が、延々と頭蓋骨を膨らませる。

漫画を読む力がないということは、目に飛び込んでくる膨大な情報を処理できないということかもしれない。阿部共実の描いた話は、絵は、漫画が判らないわたしを未知の美しさで揺さぶった。

どうにかわたしに出来そうなのは、この漫画を自分の中に収まりのいい形にすることではないかと思った。

 


 


なぜこの話はこんなに悲しいのだろう、まずわたしはそこから考えた。

この悲しみはわたしだけが感じるものではないようだ。美しくって、とても悲しい。それが実質的には最終話である7話の、水谷にも月野にも、大人にもこどもにもどうすることも出来ない圧倒的な事実を突き付けられて、覚える無力感とそのままリンクする。とすれば、普遍的な悲しみと言って差し支えないはずだ。

この漫画のタイトルは『月曜日の友達』である。『月曜日「の」友達』は『月曜日「(だけ)の」友達』ということであろう。より正確を期して書くならば『月曜日「(の夜の学校)(だけ)の」友達』ということになろうか。二人はそれ以外の曜日、会話もなく、あまりに遠い。それは月野のあまりに無邪気な、しかし彼を構築するルールによるものであり、火曜から日曜までの間、手の届くところにいる少年は水谷にとって声も届かない存在である。

6話において、その枠は月野自身によって外される。月曜以外の曜日にも、昼の学校でも、二人は(火木をはじめ、他のクラスメイトも交えて)会話が出来るようになる。時間的には中学一年三学期の、わずかな期間ではあったが。

ここにおいて二人は既に『月曜日の友達』ではなくなっている。言うなれば二人は三学期、「友達」として過ごした。

それを踏まえて、7話「わたしたち、友達だよな。」「ずっと一緒だよな。」という水谷の言葉を読むとすれば、このタイトルは悲しい。タイトルの言葉がばらばらになって、二人はやがて、その名前を付けられる関係ではなくなってしまうのだ。だって水谷は東京に行く。月野は、十三歳の彼が思い描くような未来が本当に訪れるのなら、水谷の側にはいられない。二人の未来は読者が悲嘆すべきものではないにせよ、この一年間を見せられた側としては透明な悲しみの中に浸された気持ちを味わう。

8話においては、水谷も月野もいない。恐らくは次の年度の四月の景色である。ここで阿部共実は残酷な事実を突きつける。水谷が月野が、あるいは水谷と月野が、どうなったのかは知らない、ただ、同じようなこどもかまたやって来る。

UFOは珍しいものではないのだ。同じようなプロセスを辿って、仲良くなって、喧嘩をして、仲直りをして、互いを心の底から大事に思う体験をして、そして当たり前のようにそれが終わる。ちっとも珍しいことではないのだ、どこにでもあることなのだ、こんなものは、……と、筆者自身が自身の描いてきた美を普遍化してしまうのだ。

あまりに残酷な締めかたのように、わたしは思ってしまったのだが。

 


 


わたしはこの漫画を読む間ずっと、恐ろしいことが起きるのではないかという不安を抱いていた。

水谷と月野が重ねていく時間、その歩みかたが、わたしには危なっかしく思えて仕方がなかった。彼らの手にあるものは、ちょっと扱いを誤っただけで壊れてしまう。それなのに、彼らはごく無頓着な、不注意な足の運びをする。彼らの手にしたものがどれだけ大切か知っているから、どうか、君たちだけはどうか、それを最後まで壊さないで歩んで欲しい、祈るような気持ちで二人を見て、……結論から言えば、それは壊れないのだ。二人は最後までそれを運び切ったのだ。

しかし、それを見届けたわたしは絶望する。彼らが柔らかなその手で運び切ったものは、読み終えたわたしの掌の中にはその破片すらももう残っていない。やがて彼らが必ずそれを失うことになると、遅かれ早かれそれは絶対にそうなると、知っているからこそ、わたしはそれが壊れる瞬間を見たくなくて、恐れていたのだ。

 


 


この漫画には水谷と月野のほかにも、多くのこどもたちがみずみずしく描かれている。

一方で、「大人」はどうであろうか。水谷の母、姉、そして学校の教師たち、月野の父親。それらの人々はいずれも、顔が描かれていない。唯一顔が描かれているのは「ぶっとばしますよ!」と朝礼で叱声を飛ばす先生だけだが、それもごく小さくである。他のシーンでは、顔は吹き出しに隠れるか、影になって見えないか、顔の向きによって伺えない。この点は徹底されている。

では、それを元にこどもたちを見てみるとどうか。この漫画は、わたしには(そもそもモノクロなのだが)色彩ではなく明暗で描かれているのではないか、と思われた。あるいは、光と影。影が大人を表すのだとすれば、こどもは光ということになる。

作中、幾度もこどもたちに影がかかることに気付かされることになった。とりわけその機会が多いのは、作中でただ一人、「白」で描かれる月野である。

1話、真っ白な、美しい少年として月野は現れる。初めて夜の学校で水谷と出会ったときの彼は、まばゆいばかりに白い。夜の闇の黒を背に、彼は光っている。「どおおおおん!」のコマは真っ白だ。一方、影を帯びた彼の口から出てくる言葉は、大人になりたいと願う心から溢れるものである。 恐らく、特筆すべきは7話、空から降りて、この作品において最後に描かれる月野である。

ここで、月野の「髪」が初めて影を帯びる。それまで逆光の中にあっても、暗がりであっても、常に光っているように白で描かれていた月野の髪に、スクリーントーンの影が乗せられた。

色んな解釈が出来る。例えばこんなのはどうだろう。月野の髪が白く眩く見えたのは、彼が特別な存在であった水谷だけだ。とりわけ月野が、「こども」として在るとき、彼は光を放って来た。月野が水谷の夢を叶え、新しい夢を提示し、二人はおしまい。水谷にとって月野は、もう特別な存在ではなくなってしまう。だから、その髪から光が失われた。二人は『月曜日の友達』ではない『』になった。恐らく遠からずやってくる、他の友達と月野とがイコールで結ばれてしまうとき、月野の髪は水谷と同じ漆黒で描かれることになる。その変化の、最初の発現。つらいことだけれど、8話でああも鮮やかに「普遍的」という事実を突きつけて来た作者であるから、ここも容赦のない描写をすると考えるのは、自然ではないだろうか。

 


 


白と黒、というところで考えると、水谷の持つ「水玉」の要素が気にかかる。水谷は大きなリボンとヘアバンド、それから、あれは何と呼ぶのか、足首につけているあれ(としか言えない)は、いずれも黒地に白の水玉である。それは月野のボールとイメージの重なるデザインなのかと思って読んでいたが、どうもそれだけではない気がする。

4話である。夜の海辺で二人きりの花火をする、さざなみに掻かれる水面に映る二人の姿は、花火の光だけではない、二人そのものが発光しているかのように、浮かび上がっている。一人で(恐らく花火の台紙であろう)紙を燃やすときには、その光はない。しかし彼女の水玉はくっきりと白い。

黒が大人の記号、白はこどもの、だとすれば、水谷の「黒地に白の水玉」という模様は、大人の中に残るこどもの要素という捉えかたも出来るのではないか。あるいは、大雑把な言いかたになってしまって恐縮だが、……例えば、大人になっても「白=こども≒月野」を胸に留めている証とか。

白い水玉は水谷の中にくっきりと残る月野だ。水谷は大人になっても白い少年のことを、面積比ではずっと大きい大人の黒の中、より目立つものとして留め置いている。最後の一コマを除いて徹頭徹尾、どんな状況であれ白かった月野の髪がこどもの記号であったことは、疑えないように思う。

 


 


この話において「大人になる」とはどういう意味なのだろう。6話で土森が定義している。

「与える」という言葉を、3話で水谷も用いている。「月野に与えたい。」と思っている。月野を無性に愛しく思い、彼を知りたく願い続け、水谷が彼女なりの「大人」になろうともがいた、その表現の一つが火木からゲーム機を奪還するという方法であった。

愛は与えるもの、だなんて言う。愛を受けるだけではなく、与える側に立ったとき、人は大人になるのだという考えかたは納得できるものだ。妹弟に対して既にして「与える」側に立たざるを得ず、「早く働いてお金をかせぎたいものだ。」とまで言う、月野は当人が自覚するよりもっとずっと、その時点で大人であり、だからこそ影を纏う。

ただ、これは少し薄弱な気もする。水谷にハンドメイドの人形をプレゼントするとき、木陰でありながら月野は白い。

プレゼントで言えば、7話のチョコレートだ。この少女は一ヶ月前には月野にチョコを渡していないのではないか。そういう行為に手を染める友人たち(主に土森)を見ながら、「みんな大人だ私には出来ない」なんて思いつつも、しかし月野に何らかのものを与えなければいけないのではないかと葛藤していたのではないか、という想像は胸が苦しくなるほどいとおしいが、それはそれとして、チョコレートを差し出す彼女の顔は、無垢な光を帯びて煌めいている。

同時に水谷は、その直後に月野と同じ影を帯びる。自分の手作りのチョコレートを口にした月野に、「私にも。」と請うときの顔は描写されない。

この作品の中で用いられた言い回しをするならば、「間接ちゅー」である。火木の飲みかけを奪ってでも、月野が誰かと間接ちゅーするのを妨害したかった水谷は、月野と間接ちゅーすることを望んだ。

二人は、精神的肉体的というよりは、もうちょっと生々しい意味で、大人になってしまった。水谷に二度抱きつかれて、だらんと垂れていた月野の腕は、最後には控えめに、それでも水谷に「私を包むその胸は厚くかたく温かく、雄大で。」と表現させうるほどには力強く、彼女を抱きしめ返した。

そのときを境に月野だけではなく、水谷も同じようにその白さを失う。声の低くなった月野も、彼とキスをしたいと願い、叶えてしまった水谷も、もうこどもとしてはいられない。『月曜日の友達』ではいられない。

生きているだけで前に進んでいく。水谷が願っても月野は大人になってしまうし、水谷自身もそれは同じだ。そういう夜に彼女が考えたこと、あるいは彼女の回想したこと、「青く青く、」「騒がしく騒がしく、」「静かに静かに。」は、二つの声が重なって絡まり合って響くようでもある。

 


 


『月曜日の友達』でなくなった二人はどうなるのか。

これは普遍的な話である。

それゆえ常にそうなる、と決め付けるわけでもないし、こどもっぽい「そうだったらいいのにな」ぐらいの話に過ぎないが。

髪の黒くなった月野の側に、水谷はいる。

二人で壊した『月曜日の友達』という関係なのだ。そこから先は、二人が決めればいい。

『月曜日の友達』でないならば、もう、水谷と月野は何にだってなれる。『水曜日のダ○ン○ウン』『金曜日の○○たち』にだってなることができるし、なりたくないなら何にもならなくていいのだ。もちろん、二人一組でいなくともいいのだが、いたければ一緒にいて、こっそりと、もっとも相応しい二人の名前を、また幼稚な秘密のように名付ければいいと思うのだ。

水谷に懐いている妹弟が。

水谷をずっと案じてくれていた土森が。

二人が永の孤独から引き摺りだした火木が。

地味な日向が。

あと、なんか名前忘れたけど先輩もたぶん。

もはや秘密でも何でもない二人の、もう何度繋いだって奇跡を起こせない手が繋がれるのを見て、幸福を与えられたような気になる、そんな『』になったっていいのである。

ちっとも特別な二人ではない。二人だけで在り続けなければいけない理由もない。三人でも四人にでも、五人にでも六人にでもなればいい。

なって欲しい。

二人には、幸せになって欲しい。それが意図されるものではなく、また永遠なものではなかったとしても、短くともあと二年は、二人に幸せな時間が続きますように。

大人になっても。

 


 


こうしてわたしはどうにか、この美しい物語を、少しも美しくないわたしの輪郭の中に少し収めることができた。これはわたしの中の、極めて気持ち悪いことは自覚した上でもまばゆい希望である。