東京レトロポリタンク

BL小説家(志望)の男の興味の矛先。

「おばあちゃんち」に記憶旅行。

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「おばあちゃんちに行く」って、小学生ぐらいの子供にとってはそれがどこであれ、ちょっとしたイベントごとだったんじゃないだろうか。都心近くにあったぼくの家は父方の祖母と同居していて、「おばあちゃんちに行く」という言葉から導き出されるのは、母方の祖母の家だ。

 祖母が亡くなって間もなく二十年が経とうとしている。その間、色々なことがあった。この歳になって幼少のみぎりに遊び回った場所を散策してみたら面白いんじゃないだろうか、そんなことを思い立って、秋晴れの日にぼくは出掛けた。

 もっともぼくにとって「おばあちゃんち」の周囲は柔らかな幼少期の思い出ばかりが蘇る場所ではないということは、あらかじめ判っていたことだ。


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つくし野駅は昔のまんま

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 ぼくの母方の祖母は、祖父と、母の姉と三人で東京都町田市に暮らしていた。ぼくの生家からは電車で五十分ぐらいか。小学生の子供にとってはそれでも十分に「遠出」である。


 

 二十何年ぶりに降りた駅前の様子は、記憶の中とそれほど変わっていないように見えた。東急田園都市線つくし野駅、平日の昼間とあって、対面式のホームは人影も疎らだ。改札口への階段を上がって行くにつれて、徐々に強烈なノスタルジーが沸き立ってくるのを感じた。子供にとっては長時間電車に揺られて、改札への階段を駆け上がって、……自動改札の向こう側に、祖母が、祖父が、「よく来たね」と笑って立っている姿が一瞬で蘇ったのだ。確か昔の東急の自動改札機は、子供料金の切符を改札に通すと、「ピヨピヨピヨ」とブザーが鳴ったはずだ。その音さえ思い出される。

 もちろん今はICカードの「ピリッ」という音が短く響くだけだが。


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 駅前の様子もほとんど変わっていなかった。写真の中央左に映っている菱形の謎のモニュメント、駅の壁に書かれた夕陽とつくしのアングルも、記憶の中のままだ。ただ駅に併設されていた書店はもうなくなっていた。一方で正面奥に見える東急ストアは、昔と変わらない姿で元気に営業している。

 祖母も祖父も伯母も、ぼくが来るといつも東急ストアで「これも食べなさいあれも食べなさい」と山のようにステーキやお刺身を買い込んでくれたことを覚えている。でも、とりわけぼくの何故だか鮮烈に覚えているのはビッグシェフというブランドの、「レモンツイン」という味のドレッシング。実家とは全然違う味で、とても気に入っていた記憶がある。これを東急ストアで買って、家に帰ってレタスにでもかけて食べてみよう……。

 そう思ったのだけど、残念ながらそのドレッシングは棚に並んでいなかった。Amazonで調べてみるとまだ製造はしているようだから、この店で取り扱いをやめてしまったというだけだろう。残念だけど仕方がない。

 東急ストアを出て、「おばあちゃんち」のあった方へと歩き出す。遊歩道のようにこぎれいな坂道を少し歩くと、駅前の外れでまた強烈に記憶がフラッシュバックした。


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 あ! ここ覚えてる! と思わず小さく声を上げてしまった。この道を、駅まで迎えに来てくれたおばあちゃんとおじいちゃんと、三人で歩いたんだ!

 夏の夕方だったと思う。

「宿題をちゃんとやんなきゃ、お父さんに怒られるよ」

 というようなことを、祖母に言われたのだ、ぼくは。

「わかってるよ、朝はちゃんと早起きして、涼しいうちに算数のドリルをやるよ」

 実際にこの子供がそういう勤勉さを発揮したのかどうかは判らないけれど、確か父に「帰って来るまでに宿題のドリルをどのページまで終わらせること」と厳しく言われていて、それが出来なかったら来年の夏休みはおばあちゃんちに行かせないぞ、ぐらいの条件を出されていたような記憶がある。父はとても厳しい人で、ぼくが夏休みに「おばあちゃんちに行く」ことにあまりいい顔をしていなかった。一方でおばあちゃんたちは優しくて、毎年一つはゲームボーイのカセットを買ってくれた。ぼくはおばあちゃんが大好きだったんだと思う。


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 ぼくがもう少し大人になった頃には、祖母たちに迎えに来てもらうまでもなく、一人でつくし野駅から家まで歩いて向かうようになっていた。よく覚えているのが、この景色だ。つくし野ぐらいになると、ちょっと歩いただけでこんな景色にぶつかる。幼心にこの景色には郷愁を感じていたのかも知れない。

 同時に思い出すのは、この畑が「芋畑」である、という事実だ。ぼくは植物にとても疎くて、畑の作物の葉を見ても、実を見なければ何を育てているか判らないのだけど、この畑は芋畑に違いない、と。

 祖母が一人でぼくを駅まで迎えに来てくれた日、この畑の隅に種芋が転がっていたのだ。祖母はそれをひょいと拾い上げて、すぐ側にいた畑の人に「もらっていいかね」と訊いた。畑の人に快諾されて、その芋は夜に煮物になったはずだけど、味はどうしても思い出せない。

 景色の細かな一つひとつは残念ながら輪郭の曖昧なものではあるのだけど、こんな風に歩いていると当時はどうでもいいとしか思っていなかったことが、湧き出して止まらなくなるのが不思議だ。

 あれは帰る途中だったんだろう、祖父と母と三人で歩いている途中、祖父の声がやたらに大きかったのが気になって、電車に乗って母と二人になったとき、「どうしておじいちゃんはあんなに声が大きいの」と訊いたことがあった。母は少し困った顔になって、「おじいちゃんは耳が遠いから」と教えてくれた。耳に悪い人は声が大きくなる、という知識をぼくが得たのはそのときだし、それからさき祖父に話をするときには大きな声でゆっくり喋るよう心掛けていた。

 人間の中にある、知識とか、情報とか。そういうものの出自は、間違いなく過去の記憶なんだな。「おばあちゃんち」の周囲にあるぼくの記憶の根っこは、どれも甘い味がするような気がする。

 

子供の体力

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「おばあちゃんち」が近付いて来た。けれどぼくの足は子供の頃に戻ったみたいに寄り道をする。横浜線の高架を見上げる道の脇に、うっそうと茂った森がある。夏休み、退屈すると一人であっちこっちへ出掛けたものだが、この森にはとりわけよく遊びに来た。「森」というのは都市部ではなかなか味わえないから、子供心に惹かれるものがあったのだろう。

 森の中に階段が続いていて、別の道に出られたはずだぞ。懐かしく思い出しながら、ふらふらと迷い込んでみたのだが……。


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 階段が、急だ。


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 足が、腰が、痛い。息が弾む。どうにかこうにか登り切ったときには、十一月だというのに汗が噴き出していた。当時は何の苦もなく駆け上がったはずなのに……、これが老化か。

 記憶の甘さに比べて、現実は少しほろ苦い。

 

自分のルーツ

 

 ところで、「おばあちゃんち」の近くには電車の車庫があった。東急の「長津田検車区」である。

 ぼくは、小さい頃から電車が大好きだった。子供の頃の夢は「電車の運転手さん」だったし、電車の形式を覚えるのに躍起になっていたし、電車を眺めていられるだけで幸せだった。そんな子供にとって、いつ行っても山のように電車が並んで憩う車庫が近所にある、というのは、そりゃもうとんでもないことで、泊まりに行けば、いや日帰りであっても、必ず足を運んでいたはずだ。


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 そうそう、この坂の途中から電車が見えただけで、すごくワクワクしていたっけ。

 

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 車両基地、というのは良いものだ。たくさんの人を乗せて、物凄い速さで駆け抜ける鉄の塊は、ともすれば無機質なものではあるけれど、車庫に並んで、ドアを半開きにして休んでいる姿には生きもののような愛嬌がある。少年期のぼくもそんなことを思っていたのかも知れない、おばあちゃんに「写ルンです」を買って貰って、車庫の電車をたくさん撮った。今見返すと酷い写真ばっかりで脱力してしまう(一部、とても貴重な電車の写真もある!)のだけど、その情熱だけは何となくこそばゆく、微笑ましく感じられるし、一枚シャッターを切るたびにジャリジャリとフィルムを巻かなければいけなかったことも思い出された。

 そういえば……、この車庫にはちょっと珍しいものがあるんだった。

 

 さっきの芋畑もそうだけど、この辺りは二十年前には畑が多かった。この車庫が出来たのは昭和54年、今から四十年近くも前のことで、当時は更に畑だらけだったことは想像に難くない。そんなエリアにある車庫ならではのものが、これ。

 

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 農耕車両専用信号、である。

 

 ……記憶が確かなら、ぼくがこの車庫に通っていた頃にはこの信号、カバーが駆けられていて実態は明らかでなかったはずだが。

 この赤と青の二灯式信号は、車庫を跨ぐ長い長い橋を農耕用のトラクターが渡るタイミングで使用される。跨線橋の上を農耕用車がひっきりなしに行き交うことがあったとも思えないけど、同時に橋の東西からトラクターがやって来るというのは都合が悪い。そんな訳で、橋の入り口に車両が到着した段階で、「押しボタン式横断歩道」にあるようなボタンを押して反対側の信号を赤にしてから橋を渡る……、という仕組みであったのだろう。実際全国でどれほどの活用例があるのかは判らないけど、遺構のレベルであってもこうして現存している姿が見られるというのは嬉しいものだ。

 

 それにしても。

 現在のぼくは高所恐怖症である。跨線橋を渡りながら、……電車の屋根を甍の波のように見下ろしていたことが思い出されるのだけど、よくそんなこと出来たよなあ、と感心してしまう。当時を思い出すようにスマートフォンで写真を撮ろうと試みるのだけど、高さが恐怖心に直結してしまってまともな写真はろくに撮れずじまいだった。

 

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 跨線橋の反対側にはもう一台の信号機。こちらは遮光の庇がとても大きいタイプで、これも珍しい。

 

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 跨線橋を渡り切ったところには横浜線の踏切がある。電車好きの子供にとっては夢のようなエリアだな本当に。けど、それだけに危なかったんじゃないか、なんてことを思ってしまう。歳をとるにつれて「速さ」というものが現実的な生死に直結していることを意識することが増えて来て、例えば「通過列車が参ります」なんて言われると思わず壁際まで退いてしまうぐらい、恐怖心を覚えるようになったので余計にそう思うだけかもしれないけど。自分が自分の子供だったら……、と考えると、ちょっと背筋が寒くなる。



昔よく遊んだ公園へ

 

 さすがに「おばあちゃんち」の正確な場所を特定されてはいけないので、そのエリアをうろつき回ったあたりの写真は載せないでおく。家がそのまま残っていて、でも、知らない誰かが住んでいる、という事実に慣れるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。ああ、そうか、「おばあちゃんち」は借家だったんだなあ、なんてことが大人になるとこうして理解される。

 おばあちゃんちの前まで行って思い出したのは、ぼくには「おばあちゃんち限定の友達」がいたんだった、ということ。隣に住んでいた同い年の男の子で、たまたまその子が家の前で遊んでいるのを見掛けたぼくの祖父が、「遊んでやってくれないか」と声をかけたのだ。ぼくらはすぐに打ち解けて、その日から彼の家でファミコンをして遊んだり、一緒に車庫へ行ったり。とりわけよく覚えているのが、五分ほど歩いたところにある公園でのことだ。


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 一体全体、どうしてそんなことをしようと思ったのか判らないが……。

「俳句って知ってる?」

「知ってる。五七五で作るやつでしょ」

 当時、ぼくらは小三とか小四とかだったはずだ。そんな子供が二人、公園のベンチに座って、ひたすら俳句を作って披露し合う、という遊び。せっかく公園に来て、何でわざわざ俳句なんて作ってたんだろうな、ぼくたちは。でもそれがとても楽しかった気がする。ここまで結構な距離を歩いてきて、おじさんは少し疲れたので同じベンチに座って、当時の気持ちを思い出してみようとするけれどうまく行かない。俳句を捻り出そうとしても、ちっとも良い句は浮かばない。

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 あの男の子はいま、どこで何をしてるんだろう? 「隣のおばあちゃんちに遊びに来る電車が空きな男の子」と俳句を作った記憶、残っているだろうか……?

 

 

人生には、当たり前のように色んなことがある

 

 総じて、ぼくは子供の頃、とても幸せだったんだろうな。とりわけ「おばあちゃんち」にまつわる記憶は甘美なものが多い。まだ何も知らなくて良かった。おばあちゃんが褒めてくれるから、ゲームソフトを買ってくれるからっていう理由でテストを頑張ればよかった。

 おばあちゃんが亡くなったのはぼくが高校一年生のとき。

 その辺りを境に、ぼくはこの街に寄り付かなくなった。少しずつ、少しずつ、ぼくの実家と母の実家の関係が、おかしくなり始めたからだ。それは母と父との関係が歪み始めた時期でもあったと思うし、ぼくが「BL小説家になる」などと言いだした辺りでもあった。

 詳しく書くことはここではしないが端的に言うと、ぼくが二十五歳のとき、母は下らないことで激昂した末に自殺を図り、それを防ごうとしてぼくは負傷した。それから数か月に渡り、引きこもり(と言っても、毎日仕事には出掛けていた)生活を送った末に、母から「夫から酷いことをされ、離婚したくてしたくて追い詰められていた。あなたを傷付けてしまったことを心から申し訳なく思う」という謝罪を受け入れるに至った。母に同情したぼくは父を憎み、母の出奔を手引きさえした。自分は母思いのいい息子だと信じて疑わなかったし、亡くなったおばあちゃんも喜ぶだろうと信じて疑いさえしなかった。

 しかし現実は違った。

 母は出て行くに際し、ぼくに彼女の夫がしたという悪事を滔々と語ったが、そのどれもが嘘であることは後になってから判った。どうも父方の伯母が弟(つまりぼくの父)を憎んでいて、裏で手を引いていたようにも見えるのだが、それも定かではない。何にせよぼくが事態の全体像を掴んだのは、母の出奔から一年以上が経過し、ぼく自身も実家を出た後のことだ。

 母は出奔に際し、父のお金を持って行ってしまっていた。

 そのお金でマンションを買って、今は伯母と暮らしている。……ひょっとしたらまだ健在かもしれない祖父も同居しているかもしれない。そして離婚は、未だ成立していない。

 両親の別居が始まって、来年で十年目を迎える。

 

 金の問題はさておき、現在のぼくは両親がきちんと離婚してくれることを願っていて、何度も母に手紙を送って来た。母は明らかに迷惑がっていて、やがて返信さえ来なくなってしまった。

 今年の四月、業を煮やして母が居を構えたマンションに行った。インターフォンに出たのは、幼い頃の記憶とは別人のように冷たい声の伯母だった。伯母曰く、母は「息子からこんな仕打ちを受けるなんて」と精神的苦痛を味わい、体調を崩して入院中だと言う。ぼくは「早急に離婚を成立させて欲しい。金についてはよく判らないが、あるべき場所にあるのが本当では」ということを言っただけのつもりでいたのだが、母にはそれが「息子が父の側に付いた」という意味に受け取られたらしく、相当なストレスになってしまったようだ。病状を教えて欲しいと告げて帰って数か月後、何食わぬ顔の手紙が久しぶりに母から届いた。要約すると「放っておいて欲しい」という内容だった。


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「母の実家」から一番近い横浜線成瀬駅へと歩きながら、「おばあちゃんち」の記憶が甘美なままであることを、ほんのり嬉しく思っている自分がいた。成瀬駅には当時「そうてつローゼン」と「ユニー」という二つのスーパーが軒を連ねていて(「そうてつ」のみが現存)伯母の運転する車で買い物に来た。二階におもちゃ屋さんがあって、そこでゲームソフトを買ってもらったんだったっけ。


 そう思って二階に上がってみたけれど、フロアの大半はドラッグストアと本屋に変わってしまっていた。

 テナントが変わるように、気持ちも変わって行くものなのか、と少し陳腐な感傷に襲われた。

 

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母の件がこれからどうなるか判らないけれど

 

 ぼくは小学校四年生のときからずっと、小説家を目指している。二十五年近くやって来て、いまだその夢を叶えられていないのだけど、じゃあ何で小説家になりたいと思ったか、というと、当時読んだ久美沙織さんの「小説 ドラゴンクエスト5」に感動したからだ。人生で初めて「小説を読みたい」と言ったぼくにその本を買ってくれたのは母方の祖母であり、祖父であり、伯母であった。

 そしてそもそも、ゲームソフトの「ドラクエ5」をぼくに買ってくれたのも「おばあちゃんち」の人びとだ。

 ぼくは「おばあちゃんち」で得たものから生まれた夢をずっと抱えて生きている。


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 苦難の末に成長した主人公が、まだこの先何があるか知らない幼き日の自分に会いに行く、というシーンが、ドラクエ5にはある。幼い主人公に向けて、成長した主人公はこう言うのだ。

「この先どんな辛いことがあってもくじけちゃダメだ」

 ぼくの人生に起きていることは、別にそんな大したことじゃない。けれど、「人生にはいろんなことがある」ということは学んだ。だから仮に、ぼくがまだ何も知らない子供の頃の自分に言うことがあったとしたら。

「おまえは大人になってからまたここへ来る。そのときおまえは、そこそこ幸せに暮らしている」

 ということを教えて、少しばかり安心させてやりたいものだ。

本の告知。

本、と言っても同人誌ですが。


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「BLってなんだかわからないから自分を素材に作ってみた』

斎藤充博/斎藤詩織里/井口エリ/米田梅子/くみこ/おおたかおる/村岸健太


前代未聞!

「新婚の夫を題材にしたBL小説の評論を新婦が行う同人誌」です。タイトルの通り「BLってよくわからないけど流行ってるな〜、わかりたいな〜」という動機で作られた本。デイリーポータルZなど数多くのwebメディアで大活躍中の指圧師ライター・斎藤充博氏がお送りする、今年最大の問題作!


11月18日(土)京急蒲田駅徒歩2分の蒲田pioにて開催される「第2回webメディアびっくりセール」にて発売!


全年齢対象/1,000円


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もともとおれは斎藤さんの指圧治療院のユーザーだったんですが、だいぶ早い時期に自分がBL小説家志望であることを伝えていまして。一度小説の取材をさせて頂いたこともあるんですよ。そんな縁もあって今回、光栄なことにお声掛け頂きまして、斎藤さんと同じデイリーポータルZライターである玉置豊さんとのBL小説を書かせて頂きました。

自分の持っているもの全部注ぎ込んで臨みました。光栄通り越して畏れ多いというか恐ろしいことに、奥様にレビューまで書いて頂いてしまっております。

もちろん他の方の分も……、小説あり、漫画あり、グラビアあり、評論あり、読み応えたっぷりの一冊となっております!


現在、斎藤さんのblog(http://fushigishiatsu.hatenablog.com/blself)にて先行予約を受付中です。「確実に手に入れたい!」という方は是非、斎藤さんのblogからお申し込みくださいね。


無関係なお祭

今日から夏コミなんだった。


おれはもう五年以上同人活動をしていない。たまに知り合いが作る同人誌に請われて短編を寄せるぐらいで、あとはもう、イベント会場にもほとんど行かなくなってしまった。行ってもあんまし得にならねえな、と思うようになってしまったからだ。

それは端的に、お金の話だ。


小説の同人誌は売れない。漫画のそれに比べると、びっくりするぐらい売れない。それをよく理解して手を付けないと、ほんとに驚くくらいマイナスが出てしまうのだ。

つまんない本はもっと売れない。

二次創作なんかだと、旬じゃないジャンルの本はもう、内輪でぐるぐるまわってるぐらいのもんじゃないのか(と言って、おれはコミケに行くたび毎回ぜんぜん知らないジャンルの同人誌を買ってたけど)


売れない条件を全部満たした同人誌を作っていたので、当然売れるわけがなくて、たまーに売れたかと思うと「有名な同人漫画家が表紙を描いてくれた旬のジャンルの二次創作小説」で、祈るような気持ちを込めて書いたオリジナルの小説なんてもんはもうほっとんど売れなかった。

売れない、となると印刷費がそのままマイナスになるわけで、……こんなのやってられっか、と辞めてしまったんだ。

しかし売れ線を書き続けていたらもうちょっと儲かっていたのかな……、と思うことはある。あのとき貪欲に売れ線を書き続けていたら……? ひょっとしたら今頃とうの昔に小説家になれていたかもしれないな、と。

三年前に死んだばあさんが、初めて夢に出てきた。

おれ最近洋食屋に行くの好きなんだ、って話したら「じゃあいいお店あるから連れてってあげるわよ」って、おれの手を引いてひょいひょい歩き出した。

はー、ばあさん元気だなあ、と感心してるうちに、店に着く前に目が覚めた。


お盆だなぁ。


この話を知人友人にしたところ、三人中三人に「それ洋食屋に着いたら死ぬやつやん」と言われた。

おれは毎晩確実に夢を見て、しかもその日一日ぐらいの範囲は覚えているんだけど、夢がそういう生き死にのボーダーになるんだとしたら結構あやふやな毎日を生きていることになるように思う。

しかし生き死になんて、例えば歩きスマホで電車にぶつかったりとか、青信号だからって渡ってたのに車が突っ込んできたりとか……、あるいは、おれはサバアレルギーなんだけど油断して食べた物に大量のサバが入っててショック死したりとか……、そんか感じで決まってしまったりする。

お盆はそういう人たちも含めて帰ってくる時期なのだなぁ、と思うが、うちのばあさんの死因はいわゆる老衰だ。

何回だって童貞喪失

この間の「水中、それは苦しい」のライブ、最高だった。詳しくは次回の水中関係日記に書く。


今日はちょっと所用でお出かけ。

今年は「これまでやらなかったいろんなことしたいなあ」と思っていた。

その一環。

緊張するけど、楽しみでもある。

これもそのうち(そんなんばっかりだ)

34歳の初体験

今日はこれからライブに行く。


水中、それは苦しい」が、おれは大好きなのだ。人混みが嫌いで、じっとしてるのも好きじゃないもので、34歳になるまで一度もライブというものを観に行ったことがなかったのだけど、今年の三月に「行きたくないなあ」という気持ちを「観に行ってみたい!」という気持ちが上回って、とうとう水中のライブを観に行くに至った。

これについては近いうちにまとめてきちんと書こうと思っている。緊張したけど死ぬほど楽しかった、メンバーの方たちとも写真を撮れて、幸せな体験だった。


で、今日はそれから数えて5回目のライブ。水中が、「流血ブリザード」というバンドの方たちの主催するライブに出るというので。

これまで観に行ったライブはいずれも椅子に座ってまったり楽しむタイプのものだったのだけど、……今回はどうも、そうではない。立って、大きい音がして、ものが飛んできたりするのではないか。

周りも水中ファンばかりではない、むしろその「流血ブリザード」のファンの方ばかりであろう。股間から花火を吹き出すようなバンドだ。ひょっとしたらファンの人もすごく怖いのではないか。


いまとてもおびえている。待ち時間に原稿を書こうと思っていたのだけど、全く手に付かない。



例えばジョジョがそうなんだけど、

なんだかわからないけど一定数からガッツリ支持されている作品というのがある。


ものを書いてきたせいか、あるいは変態性欲が同類を招き寄せるのか、周囲には漫画家が多い(向こうから友達と思われているかどうかは置いといて)

その漫画家の友人たちがこぞって褒める作品というのがある。

読むべきだ、面白いぞ、勉強になるぞと言われて少し読んでみるのだけど、ほとんど頭に入って来ないまま終わってしまって、そんな作品に金かけてられないので、すぐ読むのをやめてしまう。

なんでかわからないけど。


で、こういうことを考える。

みんなが「いい」と言う作品を「いい」と思えないということは、おれは「いい」ものを書く力がないということじゃないのか。

実際、「小説家になろう」なんかにオリジナルのBL小説を上げてて思うんだけど、

「えっ何でこの小説がこんなたくさん読まれてるの? 評価が高いの?」

「こっちの方が面白いと思うのに、ぜんぜん読まれていないぞ」

みたいなことが頻繁に起きる。


小説は商品であるから、たくさんの人に読まれない小説なんて書いていてもあまり意味はない、少なくとも商業作家としては失格だろう。

でも新商品に求められるのは一定の品質と、他の商品との類似性なのだ。

それがおれの小説にはないんだろう。


じゃー周りと同じようなものを「いい」と思える目を養うためにはどうしたらいいのかと考えを巡らせるのだけど、……どうしたらいいのかね?

わからない。


余談。

小説を書く書かないということを考えなければ、「他の人がいいと思うものでないもの」を「いい」と思える感覚はそう悪くないと思うのだ。ある種の中二病なのだけど、たまに、ごくたまに、「こんないいもの見つけた!」っていう幸せに浸って、誇らしくなる。